カテゴリーアーカイブ: ベトナム旅行記

早春のベトナム・農村探訪調査へのいざない1

早春のベトナム・農村探訪調査の旅へのいざない

 一昨年2014年2月は、日本の大雪のなかハノイ市ドンアイン村農村で夢のような交歓のひとときがあり、昨年9月には石川文洋さんとの平和ツアーで同じくハノイ市で産直事業を営んでいる日本の会社の人、提携している農家の方々と親しくお話しをし、近々ぜひ再び農村調査に来るという約束をしました。

 その後の話し合いで以下のような、この3年間をまとめたような少人数の農村探訪・調査を企画しました。ベトナム農民との緊密な話し合い・交歓、ラストナイトを飾る福島出身の本名徹次氏指揮の国立交響楽団のコンサートを最上クラスの席で鑑賞します。

参加者はいずれもベトナム大好き・農業大好きな方々です。両国の米作農家、流通体系、政府の農業政策・農産物価格政策、産直の試み・生産・流通・購買等協同化の経験・・・・。ベトナム農村調査1

両国ともに、高度成長のひずみとTPPなど国際関係のなかでの農業へのしわ寄せという悩みをもちながらも、歴史・現状・課題は違えど、懸命に自国の農業の保護のために熱意を燃やしている人たちの間での情報・意見の交換はきっと大きな実を結ぶことと存じます。

ご期待下さい!

2016年3月ベトナム農村調査 日程

3月7日(月)調査団入国
仙台13:00-15:30 ソウル(OZ151便)
              ソウル19:20-22:10ハノイ(OZ733便)
専用バスで Minh Cuongホテルへ Check in
     那覇20:50-21:35 台北(CI123便)桃園ホテル or モナークプラザ(送迎付き)

3月8日台北08:25-10:35 ハノイ(CI791便)

8日(火)那覇組 3月8日台北08:25-10:35 ハノイ(CI791便
              専用バスで Minh Cuongホテルへ Check in  07:30 福島組 ホテルで朝食(那覇組は無し)
18:30  Dao Thuc村水上人形劇の鑑賞、芸能者との交流会・夕食
21:00 Minh Cuongホテルへ戻る

9日(水)07:30 Dong Anh のMoc Thao Vien レストランで朝食
08:00 DonhAnh 県とLien Ha村の幹部への地方の農業発展、とくに

農業政策、流通分売価格について聴き取り調査
11:30 Minh Ha68レストランで昼食、ホテルへ戻る
14:00 Lien Ha農家への米作生産の経験交流
17:00 農業合作社の庭先で農民との交流会(夕食、日越それぞれ民謡など披露) 20:30 Minh Cuongホテルへ戻る

10日(木)07:30 Moc Thao Vien レストランで朝食
08:30 Lien Ha 村で農民への聴き取り調査・生産参加・交流
11:30 Minh 68レストランで昼食、ホテルへ戻る
14:00 Dong Anh 区安全安野菜栽培農場見学とDo Thi Lien野菜栽培協同

組合見学

18:00 ホテルへ戻って夕食
19:30 ハノイで国立交響楽団コンサート鑑賞

11日(金)08:00 ホテルで朝食 以下、予定なし
調査団帰国沖縄組11:35発 福島組23:40発
ハノイ発11:35-15:10台北(CI792便)
台北17:35-20:20那覇(CI122便) 沖縄組帰着

ハノイ発23:40-
12日(土)05:35ソウル(OZ734便)
ソウル09:00-11:10成田(OZ102便)
成田―新幹線―福島    福島組帰着

ベトナム平和ツアー2014年 農村交流

ベトナム農村交流に参加した!

鎌田 隆(沖縄国際大学名誉教授)
 はじめに
 今回の旅程をつくるコンセプトとして、前回の2012年平和ツアーとの重複は避けるが、重要な箇所は何度でも行くということで、前回のクチ地下トンネルからカンザーのマグローブ林に変更する一方で戦争証跡博物館とツーズー病院は変更なく組み込んだ。また、文化面と経済面のプランとして、民族学博物館、水上人形劇、農村訪問を取り入れた。
これによって、① マングローブ林→戦争証跡博物館→ツーズー病院を回ることで、枯葉剤被害を系統的に学べた、②農村交流の芽だしができた、③福島からの報告を期待できた。ただ、②③が前半ハノイ市であったことが、大雪で「ゆきどまり?(駄洒落)」で日本で足止めを喰った福島組のみなさんのみならずツアー全体にとって大きな打撃であった。
今回の大きな課題を、①前半の農村交流・報告会と ②後半のベトナム戦争とくに枯葉剤被害(カンザー・戦争証跡博物館・ツーズー病院)として掲げた。

 農民との交流・交換
 筆者にとってのベトナム農村調査は2回目であった。第1回目は、2003年8月の南部メコンデルタのチャンジャン省ゴコドン県タンニャット村ビンタイ農業合作社での聴き取り調査であった(詳細は、拙著『ベトナムの可能性』2006年4月シイーム出版)。
ベトナムでは、1975年ベトナム解放後南ベトナムでも一挙に農業集団化が実施され、行き詰まり、それが直接的要因となり、ドイモイ政策が開始された。
大多数の合作社が解体されるなかで、上記合作社では、ドイモイ政策以後も良好な実績を挙げ残存する合作社であった。それでも、生産・供給・消費の全面にわたる協同化ではなく、生産手段の供給や生産物の供出で市場経済化された関係で、資本主義的企業を仲介するものであり、ドイモイの成果を踏まえて協同化された農業合作社として好結果を示していた。
筆者にとっての2回目の今回は、農業調査というよりは、農民との交流という側面が強かった。だが、農村訪問については、旅程作成の初期の段階からその要求は大きかった。
それには、第一の課題は、2010年おきなわ・ベトナム祭りのシンポジウムで来沖した、故桜井由躬雄東京大学名誉教授の影響が強かった。「昔、石垣島にアンナンという国の兄妹が稲の種をもって稲を教えた」「・・・西表島に・・・ニライカナイから渡来し、人々に稲を教えた・・・」というように、沖縄・日本への稲作伝承起源がアンナン(仏領インドシナ中北部)であったこと、水田の「耕起」に「蹄耕」「踏耕」などの東南アジア伝承の耕法が八重山にあった(いずれも桜井由躬雄『緑色の手帳』)、日本の稲作のルーツとしてのベトナム農業との交流への要求が強かったこと、

第二の課題は、沖縄・福島から農業関係者が参加して、日本農業とベトナム農業の歴史と課題、農業技術の交換など専門的な内容まで踏み込んでいけるという願望があった。
例えば、①現今のベトナムでは主に自家用や富裕層・日本人向けに限定され未発達な、無農薬など有機農業について、②固有種農業(地場の伝統的種子での農作物栽培)について、一つは、日本の農家が技術指導・協力することがないか、二つに、たとえば、有機農法にしても基準を設定して認可取得を支援する態勢づくり、三つに、米作における土作りなど農業技術の交流・交換をともに考える。

第三の課題は、ベトナムにおける農業合作社の経験・課題と日本における農業協同化の現状の意見交換、などなど、日本・ベトナム共通の課題への意見交換と支援態勢を創出する。

第四の課題は、ベトナム特有の「農村から析出される労働力が共同体から離脱し得ない『離農不離郷』(前記桜井由美雄)」、すなわち、農業を離れても農村に居続けるという

ベトナム独自の状況の実態を実際に確かめたい。
さらに第五の課題は、③近年のベトナムでの農地破壊やWTO加盟などによる食糧自給率の低下の傾向について、日本の戦後高度成長下の農業の衰退の実情からの問題指摘や対策を提案する。
以上のような農村調査に際しての課題整理を、沖縄で提案し話し合った。

 

ドンアインの農家で
 今回の農村訪問は、ハノイ市の近郊農村であるドンアイン地区農村である。
バスは、幹道に停車して、それからは農道・畦道を進んだ。ちょうど紅河の水郷で豊かな水に囲まれた佇まいの農家の中庭に案内された。いわゆる「農業合作社」ではなく、個人農家の小さなグループのようである。
庭の左右は池、正面の作業小屋・住居の背面は水田である。池には数百羽の家鴨が群れている。リーダーらしき農夫とその息子やその他10名ばかりの農民や子どもたちが応対してくれた。
筆者からの挨拶と、訪問の趣旨説明では、上記のような当方の課題意識を披露した。しかし、春の大雪によって未だ到着できない福島の農業関係者と、沖縄側も準備不足・打合せ不足があり、上記問題提起に続く「二の矢」が出ないし、相手側からの回答も望むべくもない。
農村調査の前提としての、農業経営形態、協同化の程度、農家数、農業従事者数、生産物の種類、生産額、農業収入、「ドイモイ」政策の成果・課題と展望など基礎的な事項・数字すら聴きだせなかった。これは、問題提起した筆者の責任として深く反省している。
ついには、堅い議論はさておきという雰囲気から、家屋の向こう側の水田で、二期作の最初の田植えの現場を観た。耕作面積は日本と変わらない小規模な田んぼが続いている。区画ごとに2・3人のユイマールのような関係?の「早乙女」たちが、今では日本では珍しくなった手植えをしている。

ドンアイン農村交流2.16

夕間暮れの畦道で、参加者はそれぞれ質問をしている。筆者がリーダーの息子に「後継者はいるか」と尋ねたら、「自分の息子はもう農家は継がない」「六代目で途切れる」という。このハノイの近郊農村にまで都市化が押し寄せ、離農傾向が増えているのかと暗澹たる気持ちになった。あとは、全部自前の食材による料理に地酒の交歓会が始まった。当方からは台湾で買った洋酒をプレゼントした。女性の参加者は農家の女性たちと記念写真である。時あたかも(暦をみれば)如月の十六夜の月、「田毎の月」なんて今では使わなくなった季語を思い出していた。

農村家族

議論は決して深まらなかったが、白い月に照らされた墨絵のような幻想的なひとときであった。沖縄側は、これは準備万全の「芭蕉布」の二部合唱、最後は、子どもたちも輪に加わっての「カチャーシー」で座は最高に盛り上がった。

私の前回の農村調査は、筆者個人と専門知識をもつ通訳との調査であった。この日は、農村との出逢い、交歓会・交流会であって、調査や経験・技術の交流は次の段階であると割り切ったら、成果を誇ることができるであろう。沖縄・福島側もベトナム側も再会を期する雰囲気は出来た。福島の農業関係者は、農業技術の交換のための資料も報告の準備もできていた。福島側の稲田提供による農業を通した福島・沖縄の交流が始まった。沖縄側参加者は8月から農業研究会を立ち上げ、次の機会に備える。

スナップショット 2 (2015-03-31 9-26)

白い月に照らされて帰りに着く沖縄・福島の参加者と見送るベトナム側の農民たちの影絵のような姿が畦道に続く、再会を期して・・・。

農村交流

「子どもたちがみた戦争と平和」展

日本・沖縄とベトナムの平和・文化交流事業

ベトナム戦争当時、米軍B52爆撃機が飛び立った米軍の最前進基地であった沖縄は、ベトナムの人たちから「悪魔の棲む島」と恐れらました。その辛い体験のなかから、沖縄・ベトナム友好協会という市民による国際友好団体が結成されました。
この度の展示会はHCM市戦争証跡博物館のご厚意と、HCM市友好連委員会などの協力により、展示します。
展示される作品は、沖縄県平和祈念資料館が全県から募集した「児童・生徒の平和メッセージ(絵画・詩・作文)コンクール」の入賞作品から選ばれ、学芸員が構成した「今、ぼくにできること」というプロセス企画展の作品と、世界中でもっとも平和を愛するベトナムの子どもたちの描いた、戦争と平和の絵画などをベトナムの多くの市民のために展示するものです。
沖縄の子どもたちが感じたこと、ベトナムの子どもたちが感じたこと、戦争と平和に対する「まっすぐ」な目と表現は、ベトナムの人々の心を打つであろうと考えます。ご家族お揃いでおいで下さい!

主催 沖縄・ベトナム友好協会 協賛 HCM戦争証跡博物館 HCM友好連合委員会

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フエフェスティバルと企画ツアーの成功

フエフエステバルと企画ツアーの成功

ベトナム中部の古都フエで隔年開催されるフエフエステバルは、ベトナム観光年の2012年4月、世界5大陸24か国30以上の芸術団体から500人、ベトナム国内20余の地域文化芸術団体を合わせて約1,500人を超す演者が織りなす世界規模の一大文化祭典となった。本友好協会は、協会独自の歌舞団と記念ツアーの組織で参加し、成功を収めた。沖縄一流の伝統文化と紹介、そのための一流の芸術家の組織と、ホームステイの経験が、沖縄からの参加者とベトナムの家庭に与えたそれぞれの教訓はこれまでになく貴重であり、沖縄とベトナムのより緊密な友好親善の実を挙げたといえよう。
第一に、沖縄の古典舞踊の師匠たちが流派を超え自費参加して、県内でも実現できない超一流の夢の協演である。舞踊団は、舞踊家7名、三線・筝・太鼓など奏者5名、古武術演舞者1名の13名から構成され、貫花、四つ竹などと古武術を合わせて10の演目を異なった所作の手合せから始まり、それぞれの楽器、小道具、衣装、被り物などを自らの手で運び、満場の観客に琉球伝統の芸術の香りを届けて魅了した。各芸術家の方々の文字通りのボランテイア的な献身的尽力がなければ成功はなかったといえ、深く感謝する次第である。

以下、第1部 歌舞団への呼びかけ・結成から実演当日、旅行全体を組織した、仲村千恵子理事の旅行メモと写真、第2部 ベトナムの一般民家にホームステイしてカルチュアショックを受けたメンバーの手記と写真から、その沖縄からの「文化使節」を果たした、友好親善の使者たちの活躍ぶりを紹介しよう。

第1部 歌舞団の結成と海外公演

(1)過去2回とは違って、友好協会自前の歌舞団を結成するために、仲村理事はまず過去に海外公演でお世話をした琉球舞踊家の一人ひとりに面会して意義を訴え要請した。一度は断念した今回のフエフエステバルへの参加が、この努力によって、歌舞団の結成、記念企画ツアーの実施につながる
(2)仲井眞知事への表敬訪問・記者会見
4月3日昼前、9名の歌舞団員と友好協会役員5名は、仲井眞弘多沖縄県知事を表敬訪問しフエステバル参加を伝え、知事からはその前にフエ省知事からの招待への鄭重な返書が託された。その後県庁第1記者クラブで、沖縄県民への呼びかけがなされた。席上、宮城律子・琉舞無憂華の会師範から「おきなわの伝統芸能や音楽の薫りを届けて喜んでもらい、交流の小さな種が生まれることを望む」旨の発言がなされた。

 

 

 

 

 

 

2.出発から開会式まで
4月6日朝 普通ならお弟子さんが運ぶであろう大きな楽器、衣装、被り物、小道具などを各自携えて、那覇国際空港を出発、台北―ホーチミンを経て目的地フエに到着したのはもう夜も更けていた。

4月7日 入手困難な開会式チケットはフエ沖縄文化交流センターの手で確保され、午後8時、折からの雨も上がり、フエの王宮を背景にした特設舞台で、華麗で民族色豊かな演舞や王宮上空に打ち上げ花火でフエステバルの開会を祝った。

3.現地中学生、大学生らとの文化交流会、表彰式
朝9時から、フエ師範短期大学での交流会には、グエン・チー・フオン中学ら3中学から90名、フエ外国語大学・フエ師範短期大学生ら160名、またフエ各国友好協会連合会会長、フエ越日友好協会会長、校長ら来賓が会場を埋めるなか、沖縄の歌舞団が舞踊や空手演武を披露、また、現地中学、大学生らもそれぞれ演技をし、フエ側、沖縄側からの
友好連帯の挨拶もあり、友好の輪を広がった。

4.その後、市内ホテルでは、各国代表へのフエ省招待の感謝パーテイが開かれ、それぞれに、フエ省からの感謝認定証が授与された。このオールカラーの美しい賞状は、後にカラーコピーされ、公演記念として沖縄歌舞団の全員に授与された。
沖縄代表も舞踊を披露し、カチャーシーには各国代表も加わり、友好の雰囲気が盛り上がった。また、席上、フエ省知事宛ての沖縄県知事からの親書も手交された。

5.フエステバルでの公演当日
4月8日夕刻 フエ王宮内ダイクン門前庭に設置された特設舞台で、沖縄歌舞団総勢13名が、四つ竹や貫花、空手実技など10の演目を披露した。会場客席を埋める約200名の世界中から集まった観客を魅了した。当初はダイクン門内での公演の計画であった。
一流の琉球舞踊の質の高さはいうまでもないが、地方(じかた)を務めた唄三線、筝、太鼓らの活躍も特筆されるべきであり、わずか数名のリズムとハーモニーで琉球文化の世界を創造する技は見事で、地元テレビ局も取材していた。

また、髪結い(ウチーカンプー)の技術をもったメンバーが全部の演目の準備を成し遂げたし、化粧や着付けも自前で仕上げた。このような少ないメンバーでのやり繰りの尽力が華麗な舞台を支えたと言えよう。
しかし、本来なら1人当たり相当の時間がかかるであろう、髪結い、化粧、着付け、早変わりなどの、幕間を地方の演奏で繋いだが、その空白にかなりの観客が席を立った。限られた費用での海外公演ということでやむを得ないところもあったが、素晴らしい演技であっただけに残念であった。

 

8.帰国、解団式、感謝パーテイ
帰国後しばらくして、4月26日、沖縄市のベトナム料理店シンチャオで、歌舞団への友好協会主催の感謝パーテイが開催され、歌舞団のメンバー一人ひとりに友好協会からの感謝状と写真アルバムが授与され、前述フエ省からの美しい認定証が伝達された。

(注)文中一部、鎌田 隆「沖越文化交流に実り」『琉球新報』2012年4月29日号から転載
以下、第二部は次回掲載

鎌田 隆 学術平和の旅 5回連載

第3回 旅の展開―ハノイからホーチミンへ

 10.ハノイの大型スーパー買い物の見学
 
夕食までの時間にスーパーを見学した。ベトナムでも2000年頃からスーパーマーケットが急増したが、2004年6月に、売り場面積規模で専門スーパー(250㎡超)、総合スーパー(500㎡超)に区分された。2009年のWTO加盟により、流通業界への外資単独進出が可能になり、METRO、COOPMART、Big Cなどがそれぞれ進出している。

今回、ベトナム土産品購入のために訪れたのは、Big Cグループ(フランスのカジノ・グループ傘下)のハノイ・Thang Long店であった。
  1階がブランドショップで、長いエスカレーターで2階に上がるとスーパーマーケットになっている。売り場面積10,000㎡、レジが100台並ぶ大型店舗であり、食糧品、衣料品、薬品、電気製品などの外、ベトナム人の生活必需品のバイクなども販売し、炊事用品の説明販売もあった。買い物客は出口でガードマンにレシートをチェックされて、何かものものしかった。(写真10)

11.シルクの村ハドン、ハノイ名物ブンチャ

  前日の多忙さも一夜明け、もう今日はハノイからホーチミンへの移動日である。
午前中、ハノイから近い観光地、木版画で知られたドンホー村(車で1時間)、陶器が世界的なブランドでもあるバッチャン村(車で30分)などと同様、シルク製品の製造・販売で有名なハドン村(車で20分)へ向かう。製造工場では、織機がガチャンガチャンと大きな音を立ててシルク布を織っている。筆者にとくに目当てのものはなかったが、つい最近神奈川へ帰った孫2人の顔が浮かび、ポシェットをいくつも買ってしまった。小さな商店街の道端で、砂糖黍やココナツのジユースなどでのどを潤した。

昼食はハノイ名物ブンチャを味わう。ベトナムと言えばフオーという米粉のうどんで有名であるが、北と南でも麺にはいろいろある。ブンという米麺を甘酸っぱいタレにつけて食する。店にはいると、タレとともに、盛り付けの揚げ春巻き、炙った肉、ツクネ、香草が出てきた。また大皿山盛りの麺が出てきてびっくりしたが、案外さっぱりした味でいくらでも入る。筆者としては、ベトナム料理の中でベストスリーに推薦したい程美味く、再来・再食したい店であった。(写真11・12)

 

12.喧噪のホーチミン市へ

  ハノイ市からベトナム航空でホーチミン市へ約2時間。ハノイ市にもまして凄いバイクの群れ、喧噪、活気・・・。やはり経済の中心地である。(写真13)

こちらのガイドさんはいかにもベトナムの若者という感じの男性。市内の中心地にあるホテルに到着。筆者は、何年か前、当地でお世話になった岡山県出身でホーチミン市で「広場」という名前の日越交流のための喫茶店の店主であった男性とそのグループと出会う。

夏の長い日もようやく傾く頃、サイゴン河のデナー・クルージングへ出かける。広い道路のバイクの奔流を無事渡り切って船に乗り込む。3階建て位の客船で、我々の陣取った1階には100名程の客か?

隣席の韓国人グループが大騒ぎし、舞台では炎のショーなんかで盛り上がっている。ベトナム料理のコースが出切った頃、船はやっと桟橋を離れた。涼風が頬をかすめる。いっときの贅沢の時間が過ぎる。(写真14)                                              銅鑼が鳴り至福の川風頬摩る(さす)
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 13激戦語るクチトンネル

  8月23日(火)

 早朝早くホテルを出発して、ホーチミンから西北へ70kmのクチトンネルへ、ここは参加者の見学希望が強かった戦場跡である。1960~1974年当時、元南ベトナムの首都サイゴン(現ホーチミン)への解放軍の攻撃の強大な陣地であった。地下250km、2層3層にも及ぶトンネルは、解放軍の陣地であり、作戦本部であり、クチ住民の住居、工場、病院・・・など生活の拠点でもあった。

 トンネルは最終的にサイゴン河に通じていて、周辺地域の密林には米軍の枯葉剤が徹底的に散布されて、今蘇っている緑の林は、当時真っ白にやがては枯れ野に変化した。ゲリラ戦の解放軍は、地域住民とともに地下に潜る外なかった。そこには、祖国を守り人民を守り平和と独立を守るために立ち上がった解放軍による人智を尽くした様々な創意工夫がなされていた。地下トンネルの入り口は直径30cmもなく、枯葉で覆い隠されている。狭いトンネルは大柄の米兵には通行が至難である。地下の炊事場からの煙は遠く離れたところから地上に排出される。地上には米兵用の落とし穴があちこちに仕掛けてある・・・。

 そうした解放軍の作戦を学びトンネルに潜り、ベトナム人民の祖国解放のための戦いを追体験する。私たちも驚嘆し感服しつつ、コースを進んだが、緑深い森林のなかから静寂を破るような耳をつんざく爆発音が時折静寂を破る。幾ばくかの料金で実弾が打てる射撃場である。
   筆者は、あたかも沖縄にいるかのような気がして思わず「実弾射撃はんたいー」と叫んでしまった。戦争を厭い平和について考えるために来たものにとって雑音でしかない。(写真15)

 

 トンネルの闇に戦士の意気思う

   

  

 14.侵略者の罪を告発する戦争証跡博物館 

 ホーチミン市にとって帰り、今度はアメリカなどの戦争犯罪を暴く戦争証跡博物館を見学した。さっきまでは、祖国の自由と解放のための人智を尽くした現場で、人間の尊さ、美しさを実感したが、今度は侵略者たちがいかに外国を侵略するために「有効」な兵器は何かをそれこそ人智を尽くして考えた様々な兵器、戦争犯罪である地域住民をいかに多く殺傷するかだけを目的とした兵器が展示してあった。ここでは人間の愚かさや醜さを感じた。

 その愚かな企ての結果としての、ベトナム国民の悲惨な情景が、日本も含む世界中の写真家の手によって白日の下に暴かれている。襤褸切れのように米兵の手で持ち上げられたベトナム

人の遺骸、あの忌まわしい枯葉剤の結果としての奇形児たち・・・。事実は一目瞭然 これらの戦争で、誰が正義でどちらが不正義かは誰の目にも明らかである。(写真16)

 

15.ペンタイン市場を見学

  1914年に設立という長い歴史のペンタイン市場は、ホーチミン市民の台所としてより、観光ポイントとして有名である。1,000以上もの店が4つのブロックに分けられている。どの店も商品一杯、それも貴金属から衣料、雑貨、食糧と様々、ある店は履物たとえば草履が山のように積み上げてあったり、またある店は食糧品なら何でも来いと取り揃えている・・・。いかにもベトナムの豊さの象徴のようである。私たちは、ガイドの注意を守り集団で歩いた。

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