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緊急インタビュー 福地嚝昭に訊く

戦後沖縄戦の歴史のなかでのベトナム戦争と反戦運動から

             2014年12月11日 恩納村仲泊福地宅

ベトナム戦争から得る教訓と反省
  私として、ベトナム戦争について行っておかねばならないことは、ベトナム戦争から出てくる教訓・反省というものがある。

 日本もベトナム戦争支持に回ったが、沖縄が本土から分離さているといっても、実際に基地を提供し米軍の戦争を支持したという反省があるが、沖縄の1950年代の「一括払い反対」闘争のなかでも、「一括支払い」の方が家を買ったり建築もできるという考えが革新政党の一部にもあった。

当時、沖縄教職員会(OTA)は会長屋良朝苗氏、副会長喜屋武真栄氏であったが、当時も「沖縄の人々は熱しやすく冷めやすい」という考えと「沖縄は反米思想が根強いから凶悪事件の裁判は福岡でやれ、沖縄では罰刑が重くなる」という司法についての発言もあり、そのよう諸意見が百出する状態であった。

祖国復帰して最初の公選知事に就任した際に、屋良朝苗氏は言った。祖国復帰は我々が闘いとったものであるが、基地を存続したままの復帰で「決して満足するべきものではない」。「険しい山道を歩いているようなもので会日眠れない」。「これが、我々のやるべき仕事である」。

現在の状況は種々の面でベトナム戦争時と類似している。なぜいつまでも繰り返すのか、いつもでこのようなことが繰り返されるのか、沖縄以外に米軍基地を受け付けろところはない。辺野古が唯一の解決方法であるといって、工事を強行する・・・・。これらは、1950年代アメリカの「土地一括取得一括支払」要求に対しる「土地四原則要求闘争」時とそっくりである。今や保守・革新といっているときではない。洞察力と決断力が求められている。

沖縄戦からベトナ戦争ヘつながる、人間の尊厳を守るためにはいかなる政治家でもかき回すことができないような当時の状況が今日に重なることは非常に残念であるが、今後が大変であるということを最後に強く申し上げたい。

(文責 鎌田 隆)

沖縄・ベトナムを語る その2

沖繩・ベトナムを語る。
沖縄ベトナム友好協会
名誉会長 福地嚝昭

 

当時、枯れ葉剤は除草剤として使われていた。基地のある所は至る所で、オイル漏れなどがあり、枯れ葉剤もしかりである。ベトナム戦争によるこれらの漏れは現在も尾をひいておる。「追跡・沖縄の枯れ葉剤」著書に詳しく書かれてる。

沖繩南部の瀬長島では枯れ葉剤の影響で魚の死骸が散乱してしていた。これは飛行場からの漏れた枯れ葉剤の影響である。

他の資料には、私の著書「美しい国ベトナム」にも書かれておる。

沖繩ベトナム友好協会とベトナムとは、当時の副大統領ビンさんが沖縄を訪問、また越日友好協会の会長も沖縄を訪問、互いの交流は経済だけではなく文化交流をも広げた。アメリカや日本は、ベトナム戦争への反省がない。
映像の時間に制限があるため部分をカットしております。

なお、書き起こしもバラバになっておりますが、よろしく。

沖縄とベトナムを語る 福地嚝昭顧問

沖縄とベトンムを語る

沖縄・ベトナム友好協会
名誉会長 福地嚝昭

沖縄は戦争により、日本との民族分断をさせられたことは、ベトナムと同じ状況であったので、我々としては日本への復帰運動はベトナム反戦運動とは両輪のようのようなものだが。
私は作りあげた復帰協にベトアナム反戦運を取り入れよとしたが、復帰運動でいっぱいで打ち出せなかったが、ベトナム戦争が起こっていることを県民に知らしめよとした。
大衆運動は政治活動と見なされ弾圧された時であったので、反ベトナム戦争反対と掲げることができなかった。
ベトンム戦争がエスカレートするごとに、米兵による事件が多くなると同時に脱走兵もでてきた。ベトンムで戦死するよりか刑務所に入れらたほうが良いと考える兵士が出てきり、人種差別が広がり白人と黒人の争いごとが増えてた。
ベトナム戦地へはトイレットペーパーまでも物資として沖縄から送り出された。
沖縄なくしてはベトナム戦争はあり得なっかたと言われるほど前線基地であった。

このように沖縄は軍事優先の島として、米軍は人権無視の活動を行う。
あの頃から枯れ葉剤はあり、当時沖縄は「除草剤」と言われ、実際の利用した。米軍は各基地に危険な物資を保管、その弊害が今日までも続いている。
枯れ葉剤が沖縄から本国米国に運ばれたとうい事実もある。

沖縄・ベトナムを語るその1 画像も御覧ください。