安田純治さんと行くベトナム平和ツア―

                   北海道美唄市       寺本 千名夫 65歳

 1.前夜

2月17日夜、ホテルで事務局作成のツア―ガイドを見ると、明日はカンザーのマングローブ林(注1)へ行くことになっている。同ガイドによれば、カンザー(注2)はサイゴン川の広大なデルタ地帯の一角にあり、ホーチミン市からは南東の方角にある。同市からの距離は、約60kmで、自動車で1時間となっている。続いて、マングローブ林について簡単な説明があり、さらに、かつて米軍は、この地域一帯のベトナム民族解放戦線の基地を一掃するために、大量の枯葉剤(その多くはダイオキシン)を投下し、そのためマングローブ林が壊滅的打撃を受けた。しかし、その後、多くの人々の努力によって、元のように再生されたものだと記されている(注3)。
ここまで読んで、ふと昔のことを思い出していた。私達団塊の世代は、ちょうど大学生から大学院生の頃にベトナム戦争反対運動に出会っている。私自身、何回もベトナム戦争反対のデモ、集会に出かけていた。したがって、ベトナム戦争の推移、デルタ地帯のベトナム民族解放戦線の基地、枯葉剤の投下、その被害(マングローブ林と人体の両方、その象徴としてのベトちゃん・ドクちゃん)等について基本的な知識は持っていたつもりである。明日、その新聞、テレビ、本から得た知識を自分の目で確認することができるである。あの頃から数十年の歳月が経過している。感慨無量である。

注1:マングローブそのものには30種類もの種類があり、植物相として157種以上、海藻類130種以上、水生無脊椎動物70種以上、が確認されている。
注2:カンザー地区の人口約7万人、おもな産業は漁業とサービス業である。ホーチミン市の中では、生活水準の低い地域のようである。
注3:薪としての利用、エビ・カニ漁、津波などの自然災害防止、自然環境保護等のため である。

2.カンザ―のマングロ―ブ林について

2月18日、いよいよマングローブ林へ訪問が実現する。カンザーへの移動のバスで、NGOマングローブ植林行動計画・研究員浅野哲美さんから、マングローブについて、その再生のための取り組みについて、解説をしてもらった。さらに、配布された資料(カンザーマングローブ保全管理委員会『カンザーのマングローブ』)で、様々なことを学ぶことができた。
例えば、地形は平坦で沖積層が堆積、高温多湿で乾季と雨季があり、水系は縦横に入り組んでいる。カンザーの主要河川はロンタウ川、ソアイラップ川、ティーヴァーイ川である。カンザーのマングローブ林は、地区の半分の面積を占めている。同地区の人口は約7万人で、1つの町(カンタイン)と6つの村がある。暮らしの基本は、漁業、水産養殖業と製塩業、最近では観光業である。
カンザーのマングローブ林は、ベトナム戦争以前には約4万haの原生林であったが、400万リットル(注4)の枯葉剤や爆弾によって壊滅状態となった。しかし、その直後から、住民による植林活動が再開され、南ベトナム解放後には、行政機関、住民、国内外の支援団体によって、急速に植林活動、生態系再生の取り組みがなされ、約30年後には、約3万7千haまで回復。2000年には、ベトナムで初めてユネスコの生物圏保護地域に指定されている。
マングローブ林の管理、保全活動にあたっているのがマングローブ保全管理員会で、職員100人が任務に就いている。他に、コーストガード、各町村の人民委員会、警察、農場、エコツーリズム会社等の受託組織、協力組織がある。

注4:石川文洋氏は、この点について「ツーズー病院によると、米軍は1961年から71年にかけて、366キロのダイオキシンを含む有毒の化学物質8千万リットルを、ベトナム全土の25%の地域に散布し、約2万6千の農村が被害を受けた。このため300万人以上が枯葉剤被害者となり、数十万人が死亡、現在も何十万もの人々が病気と貧困にくるしんでいるという。」と記している。(「障害持って生まれた子たち 枯葉剤の苦しみ今も」『AsahiShimbun Weekly AERA」2013.7.1』

3.カンザーのマングローブ林で

カンザーへの移動で、思いがけずフェリーに乗船することになった。落ち着いて考えてみると、大デルタ地帯を横断するためには、巨大な橋を架けるよりも、合理的なのだということに気が付いた。ビンカインフェリー乗り場は、お土産物屋さん、食堂がならんでいた。フェリーも、バス、自動車、バイク、乗客でいっぱいで、船中で食べ物を販売する女性も乗船しており、にぎやかだった。高速ボート発着場に近い建物(多分、カンザーマングローブ保全管理委員会の建物)周辺では、マングローブの種の選定、苗木の育成の様子も見ることができた。また、干潮時であったので、昔、北海道で使用されたというたこあし型のモミ播種器のような、マングローブ特有の根の様態を、実際に自分の目で見ることができた。
高速ボートは、再生されたマングロ―ブ林をゆったりと流れる川を走っていく。干潮時なので岸辺のマングローブは、その独特の根が浮き上がってみえる。漁をしている村人の船とは何度もすれ違う。途中、子供の乗っている船を追い抜いた。向こうの子供が手を振っているので、私も手を振った。向こうの船は岸辺を目指し、こちらは河の真ん中を走っているので船の間はだんだん遠くなっていく。それでも彼は手を振るのをやめない。そのうちもう一人の子も出てきて手を振り始めた。もう顔も何もわからなくなったけれど手を振っているのはわかる。こちらも船が点になるまで手を振っていた。残念、良い友達になれたのに・・・

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高速ボートで移動したサイゴン川下流域

高速ボートを一度下船して遊覧する。沼地を小舟に乗せてもらって樹上で群れをなしている蝙蝠を見学、蝙蝠は暗い洞窟のようなところにいるのだという先入観があったので、少々驚いた。小舟の漕ぎ手は、ノンラー(ベトナムのすげ笠)をかぶり、スラリとした、控えめな感じの若い女性の方で、とても風情があった。

4.Ly Nhon地区での昼食・休憩

再び高速ボートに乗船し、昼食会場のLy Nhon地区に到着した。お猿さんを見ながら、ベトナム料理をごちそうになる。インディカ米を用いたパサパサのチャーハンにすっかり慣れてきた。初めての料理は、おっかなびっくり口に入れ、食べられるかどうか吟味しながら、だんだんに食べられるレパートリーを増やしていった。
食後は、「ワニ釣り」に参加してみる。園内用の移動車に乗って移動すると、沼地があり、すでに岸辺に一頭の大きなワニが寝そべっていた。頑丈な鉄柵の付いた小舟で沼の中に進むと、大きな何頭ものワニがスーと寄ってくる。船ではガイドさんが釣り竿の餌に小魚(大きめのイワシぐらい)をくくり、それで釣るのだと説明してくれた。

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ワニ釣り?実は餌やり!

恐る恐る出したら、大きな口をあけてパクッと食べてしまった。見ていたガイドさんが笑みを浮かべながら、こうするんだとやって見せてくれた。つまり、餌をブラブラさせてすぐには食べさせないのである。ワニは、それを食べるために、水中 から飛び出すのである。からだの三分の一ぐらいも水上に出ているのではないかと思われる。ワニが水中に落ちる

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餌に飛びつくワニ

たびに巨大な水しぶきが上がり、ものすごい迫力があった。実際には、「ワニ釣り」ではなくて、餌やりである。あの巨大なワニを人間が釣れるわけがない。でも、それを「ワニ釣り」と表現するところにベトナムの人のユーモアのセンスを感ずる。「ワニ釣り」から戻って、展望台に上った。26mもの高さがあり、運動不足の身体には、かなりきつい登りとなった。日頃の不摂生の反省をしながら(すぐ忘れてしまうが…)、何とかたどり着いた。眺めは最高で、メコンデルタの果てしがないような広さとマングローブ林の再生状況を改めて実感することができたように思う。

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鬱蒼たるカンザーのマングローブ林

帰りの高速ボートからは、午前中には水上に出ていたマングローブの根の部分が完全に水没しており、岸辺の景観がかなり変化していることに気が付いた。満潮になってきているのである。それを見ながら、心地よい風とリズミカルなエンジン音を感じつつ、カンザーのマングローブ林のど真ん中を移動していることを改めて実感した。岸辺のマングローブを眺めながら、不思議な充足感を覚えていた。
今回のマングローブ林の見学では、クチに代表される民族解放戦線の基地の訪問等は実現できなかった。そういうこともあって、さしあたって、18日の段階では、マングローブ林の問題は、自分の頭の中では、枯葉剤によるその破壊、その最悪の状態からの再生という、大きな環境問題の解決事例として、位置づけられたということになる。

5.ベトナム戦争証跡博物館

翌19日午前中は、ベトナム戦争証跡博物館の見学であった。ホーチミン市の中心部、3号区ボバンティアン通りにある、博物館は1975年の南ベトナム解放と同時に開設され、多様なベトナム戦争に関する記録、写真が掲示されている(注5)。もちろん、博物館は、資料、写真の展示だけではなく、ベトナムへの侵略戦争に関する資料収集、研究を行い、各国の平和のための交流事業を行うことを業務としている。入館者は、2012年度には国内入館者約21万人、外国人入館者約49万人、移動博物館来訪者約24万人、合計で約95万人もの入館者があったとのことである。年々、入館者数は年々増加している

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戦争証跡博物館正面

博物館には、日本人による資料が多く収められている。石川文洋氏を筆頭にたくさんの日本人カメラマン等の作品も展示されている。中村梧郎、いわさきちひろの各氏の作品も掲示されたことがある。また、日本の各地の博物館と共同で、博物館資料の展覧会を開催しており、さらに、べトナムと日本の子供達の平和の絵画展をも開催してきた。
大きな博物館内部は、沢山のテーマごとにいくつもの展示室に分かれており、限られた見学時間では、到底回りきれなかった。とりあえずの見学の後、私たちと博物館の皆さんとの交流活動も行われた。博物館トップの皆さん、元解放軍戦士、枯葉剤の犠牲者の方々との真剣な、そして音楽も入るという友好交流も行われた。その点に関しては、他の方の紹介を見ていただくことにして、ここでは博物館の枯葉剤、マングローブ林の被害、再生の問題に関する展示に焦点を絞ることにする。

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枯葉剤による被害―同館展示写真から

博物館には、当然のことながら、枯葉剤の被害に関する写真・資料・記録もかなりのスペースを使って納められている。果てしなく続く立ち枯れたマングローブ林、植物すべてが消失し、いくつもの大きな砲弾がさく裂し、水がたまった穴が続く大地、そのような隘路をさまようベトナムの人たち、等の記録がしっかりと展示されている。そこには学生の頃、本で見たことのある写真もあった。
一連の記録を見れば見るほど、昨日体験したマングローブ林の再生事業の大変さを改めてかみしめることになる。マングローブ林再生事業はゼロからのスタートであった。植林事業は、すでに民族解放戦争中に始まっていたので、その後ほぼ40年以上にもわたるベトナム政府・人民、及び諸外国の支援者の皆さんの努力の所産であったということになる。
博物館で枯葉剤、爆撃の被害に関する写真資料を見ながら、強く印象に残っていることは次のことである。私は、爆撃の後の荒れ果てた大地の形状、さらに枯葉剤残布後の枯れ果てた木々の写真をじっと見ていて、どこかで見たことがある光景・写真のような気がしていた。しばらくして、それが沖縄の「鉄の暴風」=爆撃による惨状(よく知られている、樹木は焼け爛れ、砲弾による円形の穴がどこまでも続く光景)であることに思い至った。

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手当たり次第!米軍爆撃跡―同館展示写真から

一瞬なぜ似ているのだろうと考えたが、すぐ答えが出た。どちらもアメリカ軍得意の作戦=徹底した爆撃→完全武装兵によるせん滅作戦、によってもたらされたものなのである。こんな誰でもすぐ気付くことを、一瞬とはいえ、疑問とした自分を情けないと感じた。
最後に、その問題に結びついていることだが、館内を歩きながら考えた、この博物館が背負っているであろう途方もない重さについて記したい。今、ベトナムは、第二次世界大戦後だけでも30年にわたる民族解放戦争を経て、復興の過程にある。それは喜ばしいことである。しかし、それは、角度を変えれば、戦争の遺産を整理解体していく過程でもあるのである。一方では、30年にもわたる民族解放のためのベトナム人民の犠牲的な闘いを示し、ベトナム民族が味わった戦争犯罪を示す多くの遺産をしっかり保存し、次世代へ確実につなげていかなければならない、他方では、新しい国づくりのための戦争遺産の解体も必要である。つまり、次世代へ引き渡すものを決定し、さらにどう残すかも考えなければならないのである。比較的長期にわたる保存が可能な武器、また当時の一断面を鋭く切り取る写真等であっても、その背景を語れる語り部の存在が不可欠である。しかし、時間は待ってはくれないし、冷徹である(注6)。

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村を焼かれ悲しみにくれる少女―同館展示写真から

そして、おそらく、この博物館は、ベトナム全体におけるその位置からして、自らの博物館運営だけを考えればよいわけではないと思われる。必ずベトナム民族全体を念頭に置いた事業展開が必要とされているはずである。一つのモデル博物館としてそういう役割を果たすことになるのか、本館―地域の分館というようなベトナム全体を念頭に置いたシステムになるのか、それは分からないが。
さらに、この博物館は、大きな世界史的役割を果たすべき運命を背負っていることも付け加えたい。より具体的に言えば、欧州のアウシュビッツ収容所博物館に匹敵する役割を果たさなければならないような気がしている。今、私たちは、アウシュビッツに匹敵する戦争犯罪=人間への冒瀆、蛮行がベトナム戦争において行われたとことを知っている。

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左アオザイ姿はVan館長―同館主催の交流会

大事なことは次の事実である。アウシュビッツでは、ドイツ人自らがヒットラー・ナチスの犯罪を断罪し、第二次世界大戦後一貫してその責任を追及してきた。そのことは世界の人々によく知られた事実である。しかしながら、今までベトナム戦争における蛮行に関しては誰も責任をとっていない、という事実である(注7)。
したがって、この博物館は、ベトナム戦争そのもの、そこでの残虐な行為が、人間にとって許されないものであったということが、全世界の人々によって認識される日まで、―その日は、同時に、ベトナム戦争遂行の政治的責任者、軍関係者の責任を認めざるを得なくなる日でもあると思うが―、一方では、志半ばにして倒れた民族解放運動の闘士達の思いを伝え、他方では、ソンミ事件、無差別空爆等に代表される戦争犯罪を、告発、主張し続けなければならないという責任を背負っているのである。
来年は2015年、南ベトナム解放から40年の歳月が経過することになる。解放戦争体験者は確実に減少していく、子や孫に伝えられるとしても、その内容は、徐々に薄まっていくことは争えない現実である(注8)。そういう流れに抗する、最後の砦が、このベトナム戦争証跡博物館となろう、そういう運命を背負っているのだと思う。

注5:沖縄県出身のカメラマンの石川文洋氏の展示館もある。(「ベトナム戦後23年<中>石川文洋展示館」『沖縄タイムス』1998年9月19日)
注6:沖縄の皆さんは、「ひめゆり平和祈念資料館」の語り部の皆さんの高齢化のことを考えれば、理解しやすいと思われる。また、実体験者としての語り部は大変な仕事である。忘れたいほど辛いことを語らなければならないのである。しかし、それがなければ、記録とならなければ、なかったことにされるのである。沖縄の「集団自決」裁判がそれであった。大江健三郎・岩波書店が勝利した最大の要因は、渡嘉敷島、座間味島、慶良間島の「集団自決」の現場に居合わせた体験者たちが辛い、苦しい思いをしながら、口を開いてくれたことである。(大城将保『沖縄戦の真実と歪曲』高文研、2007年。沖縄タイムス社編『挑まれる沖縄戦「集団自決」・教科書検定問題報道総集』沖縄タイムス社、2008年。謝花直美『証言沖縄「集団自決」―慶良間諸島で何が起きたか』岩波新書、2008年。森住卓『写真証言 沖縄戦「集団自決」を生きる 渡嘉敷島、座間味島の証言』高文研、2009年、岩波書店編『記録 沖縄「集団自決」裁判』岩波書店、2012年)
注7:ベトナム戦争被害に対して全面的に責任を持たなければならない「民主主義国家」アメリカは一貫してそれを忌避してきた。そういう態度の輪郭はすでに第二次世界大戦直後の様々な処理に現れていた。その一つが他ならぬ敗戦国日本への対応であった。アメリカは、日本が自ら侵略し被害を与えたアジア各国と正面から向き合い、戦争責任を償う方向(全面講和)ではなく、「国体」の維持=天皇制の維持を至上命題とし、そのために沖縄を差し出し、本土には米軍基地の駐留を認めた昭和天皇との取引を優先する方向を、選択したのである(単独講和)。その時以来、「国体」の基盤は自らの軍隊ではなく、日米安保体制に変質したのである。(豊下楢彦『昭和天皇・マッカーサー会見』岩波現代文庫、2008年、孫崎亨『戦後史の正体1945~2012』創元社、2012年。前泊博盛『本当は憲法よりも大切な「日米地位協定入門」』、創元社、2013年、等)。
このことが沖縄を第二次世界大戦後の冷戦構造下の西側の軍事拠点=「太平洋の要石」たらしめ、同時に日本の政治経済体制の基底となった。それが沖縄を、朝鮮戦争時には米軍の出撃基地とし、ベトナム戦争時には「悪魔の島」に変え、今また、辺野古への新たな米軍基地建設の深部の推進力となっている。当然、民間人10万人を巻き込んだ沖縄戦、広島(原爆死没者242,437人)・長崎(同137,339人)への原爆投下、等に対する人道的見地からの戦争批判に対して、正面から向き合うことはできない。
注8:もちろん、実体験者が直接語るという臨場感、緊迫感を提供することは困難であるが、今は、様々な音響・映像機器が発達してきていることと、実体験者ではないが、意 欲を持った語り部も育ちつつあることも事実である。意識的な語り部の育成が必要となろう。

6.ツーズー病院平和村

午後は、ツーズー病院平和村(注9)への訪問であった。そこには、これまで繰り返し述べてきた、枯葉剤の人間への影響が、具体的な形で示されている。できれば逃げ出したくなるのであるが、私たちと同じ人間が引き起こした所業の一つである。情けないけれども正面から受け止めるより仕方がない事実である。
まず、今回、平和村チーフであるタン医師からの聞き取りの中で初めて知ったことについて若干言及しておきたい。

1.現在治療している患者は、枯葉剤の影響を直接受けた人から4代目ぐらいとなっている。
2.枯葉剤の影響を受けた先天性異障がい児は、20年前には生まれてくる子供の2.4%、そ の次の時期には1.6%、現在では0.6%ぐらいとなってきている。徐々に減少してきている。 (注10)。
3.ツーズー病院平和村には、現在、60人の患者がいる。33歳の大人で寝たきりの人もいる。
15人ぐらいが進学している。10人前後が普通の学校へ進学している。
4.国から病院への資金だけでは、患者の治療が難しく、不足分は、海外からの援助で運営している。
5.裁判において、枯葉剤の使用者であるアメリカに因果関係を認め、責任を取るよう求めいるが、彼らは、その因果関係、責任について完全には認めていない。アメリカは10年前まで環境、健康両方に関して全く認めなかったが、6年ほど前から環境への影響に関してのみ因果関係、責任を認めるようになった。
6.裁判の応援もお願いしたい。裁判のために資料を作成しなければならないが、お金がかかる。しかし、お金は治療の方へ回さなければならない状態にある。
7.裁判では、自分自身が枯葉剤の被害者となってしまったアメリカ軍、韓国軍、オーストラリア軍の兵士たちが証言してくれるようになってきた。
8.平和村は全国に12か所存在する(注11)。

枯葉剤の被害者の皆さんが、ここに、自分の目の前にいるのである。彼らの中には、医師、看護婦さん、ボランティアの方、さらには訪問者達と積極的に接触できる人達もおり、その周辺はとても賑やかである。訪問した私たちもその様子に驚かされる。人間は元来、皆、他の人とのふれあいが好きで、必要なのである。その一方で、ほぼ寝たきりで、そういう行動がほとんどできないけれど、目を大きく、しっかりと見開いて訪問者を見つめている子供の皆さんもいるのである。
しかし、それだけではない、平和村の標本室には、生命を全うすることができなかった、二重体児、双頭、手足が未分化、口のない胎児たちがホルマリン液の瓶の中にいて、私たちに何かを伝えようとしているかに見える。さらに衝撃を受けたのは、瓶のラベルに書き込まれている年月日である。2008年、2009年のものがある。それは、私たちにはっきりと上述の胎児たちのことが、決して過去の問題ではないことを示している。枯葉剤が散布されてから、35年から40年の歳月が流れているにもかかわらず、である。
書籍ですでに知っていて驚かないつもりだったのだが、実際には、それは不可能であった。現実の厳しさに思わずたじろいでしまった。枯葉剤を製造し、戦争に使用した人間の愚かさ、そしてまたその後方基地を是認してしまった国の一員としての責任、そんなことがすべて一緒になって自分に覆いかぶさってくるような気がした。
枯葉剤の被害者の皆さんには、可能な限り様々な身体機能の回復をお祈り申し上げたい。医師、看護婦、ボランティアの皆さんには、神経、体力両方を使う大変な仕事だと思われるが、最善を尽くしていただきたいと願わずにはいられなかった。
厳しい現実を突き付けられたツーズー病院平和村で、心が和んだことを二つ記しておきたい。第一は、「ドクちゃん」にお目にかかれたことである。タン医師の会見には、「ドクちゃん」も同席してくれた。治療で日本に来られていた「ドクちゃん」(写真で何回も拝見した)は、今では立派な成人となられている。しかし、「ドクちゃん」の面影はしっかりと残っておられ、すぐに彼だなということが分かった。現在、ドクさんは、平和村広報活動に従事しておられ、双子の娘さんがいる。名前は、「ふじ」ちゃんと「さくら」ちゃん。彼を助けた日本の医療チームへの感謝の思いが込められているように感じられる。日本に治療に来られてから、長い年月が経過している。その間の様々な困難を乗り越えられて、今、こうして日本とベトナムとの友好運動の懸け橋として奮闘しておられる。うまい表現は見つからないが、しみじみおめにかかれて良かったと思った。

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タン医師、ドクさんと筆者-同病院前で

第二は、ツーズー病院平和村でたくさんの若い日本の女性たちがボランティアとして奮闘していたことである。いま、日本の青年たちの考え、活動に、いろいろ苦言を呈する大人が多い。しかし、こうして、地に足をつけ、遠いベトナムの地で、枯葉剤被害者の介護活動に従事している若い女性の皆さん達がいることは間違いのない事実である。私にはこのような情報がなかったので、素直に驚き、感動を覚えた。このような活動は、間違いなく彼女らのこれからの歩みの大きな力になると想像される。ベトナムの地で、思いもかけず、こうした日本の青年たちに出会うことができ、嬉しくもあり、大きな励みとなった。ありがとう。

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日本人ボランティアの学生とタン医師―同病院内で

注9: 正確には、ツーズー産婦人科病院リハビリセンター平和村
注10:しかし、事態は自然に解決に向かっているというという状況ではない。エコーによる胎児検査で異常が発見された場合には、ほとんどの場合、堕胎を決断するようになってきているとのことである。そういう結果の数値だということをしっかり理解しておく必要があると思われる。(参照:石川文洋「ベトナム2013 枯葉剤を浴びた国(下)」『沖縄タイムス』2013年4月18日)
注11:石川文洋氏は、ツーズー病院以外の施設についても取材をされている。その2つはタイニン省障がい児施設「平和村」(「ベトナム2013枯葉剤を浴びた国」『沖縄タイムス』2013年4月18日)とカンボジア国境に近いクチ県の障がい児施設「ティエン・フク」(天福)(前掲同紙、「障害持って生まれた子たち 枯葉剤の苦しみ今も」『Asahi ShimbunWeekly AERA』2013.7.1)である。

7.ツーズー病院平和村訪問後、マングローブ林再生事業を再考察

前日のマングローブ林ツアーでは、非常に単純に、マングローブ林の再生事業は、ほぼ完了に近く、残りはわずかである。そうすれば残っている問題は、被害者の救済だけになると考えていた。しかし、ツーズー病院平和村を訪問することによって、そのことをもう一度しっかり考えてみる必要がありはしないか、と思い始めた。
そのヒントは、ダイオキシンの影響が母体の胎盤を通じて二代、三代と継続していくという事実である。それだけ強い毒性をもつダイオキシンが自然界の中では、どうなるのであろうか。自然に分解し、無害なものになっていくとは考えにくい。とすれば事態をどう考えればよいのだろうか、という点である。
枯葉剤の散布によって、マングローブ林は壊滅的打撃を受けた。しかし、マングローブの苗木は、枯葉剤が大量に堆積している大地でも、奇跡的に育ったのである。ならばマングローブは枯葉剤を吸収する能力があるのだろうか。また、枯葉剤は時間の経過とともに希釈されていくのだろうか。そうは考えにくいので、400万リットルもの枯葉剤は、土壌の中に残っているか、地下水に流れ込むか、雨期に川に流れ込むか、したということになる。そういう地下水を利用すれば、結果的に枯葉剤を体内に取り込むことになってしまう。川に流れ込めば、魚を通じての生物濃縮の問題が現実のものとなる。現在でも枯葉剤汚染がみられるということは、遺伝を通した直接的な遺伝とは別に、二次的な枯葉剤汚染が広がっている可能性があるのではないか、という意味である(注12)。
以上、ツーズー病院平和村訪問を経て、一方ではマングローブ林の再生を評価しつつも、他方では今一度、枯葉剤の残留状況、被害者発生メカニズムの徹底追及が必要ではないかと考えるようになった(注13)

注12:これらの点に関して、ベトナムでは問題になっているかどうかは全く分からない。もしかしたら、研究者、専門家の間では、すでに議論になっているのかもしれない。この点は帰国してからの発想なので、現地で浅野さんからお伺いすることはできなった。これからゆっくり勉強してみたい。小生の発想が的外れであれば、かえってよいことなのだ・・・。
注13:一度本稿を書き上げてから、石川文洋氏が枯葉剤被害者発生のメカニズムについて言及されていることが分かった。ご紹介させていただく。「なぜ、現在に至っても先天性障害の子が生まれ続けているのか。戦争中、兵士や農民が直接浴びた枯葉剤が皮膚から体内に浸透した、枯葉剤によって汚染された豚・鶏・魚などを食べた、枯葉剤を含む空気を吸った。このようにして体内に残ったダイオキシンの毒素が親から子へ、そして孫へと遺伝している。母親の胎盤、母乳から子に伝わることが多いという。」(「障害持って生まれた子たち 枯葉剤の苦しみ今も」『Asahi Shimbun Weekly ERA』 2013.7.1)

8.まとめ

紀行文と感想文の合いの子のような雑文は、以上で終わりである。通常であれば、後は、書いた本人、もし読んでいただけたなら、その方がそれぞれ内容を振り返り、静かに評価をして、読了ということになる。ところが、研究者の端くれとしての小生は、社会科学的に、ある意味では、即物的に整理・とりまとめをしようとしている。旅情、詩情そういうものとは縁遠く、つくづく「文人」の領域には住めない人種だということが分かった。
(1)現在、北海道に住んでいる私でさえ、そう思うのだから、恐らく福島からの参加の皆さんは、二日間のカンザーのマングローブ林からベトナム戦争証跡博物館、ツーズー病院平和村への旅を自分たちの問題として受け止めておられたのではないかと思われる。枯葉剤の大量散布、その後40年にもわたる、人体、環境への影響・・・、福島の皆さんにとっては枯葉剤が放射能に変わっただけなのである。前節そのものが、まさに福島の原発事故を念頭に置いての反省である。

(2)加害者は、厚顔無恥にもその責任を認めない。アメリカ政府は長い間、枯葉剤の人体環境への影響を認めなかった。環境への影響を認めたのは、ようやく6年前だとのことで
ある。枯葉剤散布から40年もの歳月が経過しているにもかかわらずに、そういう姿勢を続けてきたのである。これが「民主主義国」アメリカの一面であり、現実の姿である。他方、日本政府・東京電力は一応頭を下げてはいるが、直接的な損害賠償だけでなく、生業、大地の破壊を含むまでの賠償にまで応ずるか、答えはこれからだ。すでに現日本政府の
関心は、真摯な原因究明、損害賠償ではなく、「世界一安全な」原発の再稼働、輸出促進にある(注14)。「情けない」の一語につきる。

(3)ツーズー病院平和村チーフであるタン医師は、アメリカの責任を追及する裁判の闘争の支援をお願いしたいと言われた。枯葉剤散布・被害者への影響の因果関係に関する
資料を作成できないと裁判は勝てない、しかし、現実にはお金は治療の方へ向けざるを得ないということを話されながらである。したがって、単純に考えれば、裁判費用の支援として受け止めればよいとも受け取れる。しかし、それだけではないなあ、と考えたことも事実である。つまり、裁判の内実に関する具体的な支援の問題とも考えられるのである。とはいえ、その場では、自分は医療関係者ではないので、役には立たないなと思ってしまった。
しかし、今は、この点でも何かできることはないかと考える必要があるのではないかと思い始めている。ただし、裁判支援のことを考える前に、ベトナム国内での枯葉剤関連の治療予算、その実行状況の把握、さらに、国際的な支援状況の把握をしっかり理解することが、非常に大事な前提作業ではないかと思われる。具体的な裁判支援に関しては、以下の順。

最初は、裁判の状況、主要論点について、ベトナム語or英語の文献を入手して、日本語訳を作成し、日本国内で紹介していく。それは、資金支援の側面でも必要だと思われる。

  1. それを、日本の専門家に読んでもらい、意見書などを執筆していただく。
  2. 特に、日本の病院では、ベトちゃん・ドクちゃんの治療経験があるのだから、当時の担当医師、記録は重要な意味を持つのではないかと思う。
  3. それらを裁判で利用してもらう、等々。

ただし、アメリカが枯葉剤と人体への影響を認めないのが、たんなる面子の問題だとしたら、以上のことをあれこれ考えることは無意味をことになってしまうが・・・。

(4)ベトナム戦争証跡博物館は、非常に重い課題を背負って活動していると思われる。それは、ベトナムでの残虐な犯罪行為、ベトナム戦争そのものが、人類にとって決して許されないことであったことを、全世界の人々によって理解してもらえるまで、戦争遺産、写真、資料、書籍によって、広く、深く人々に向かって語り続けなければならないというきわめて重い課題である。言い換えれば、志半ばにして倒れた民族解放運動の闘士達、その家族、村人の思いを、祖国を愛し苦難に耐え抜いた人々の思いを忘れることなく、ソンミ事件、無差別空爆に代表される数えきれないほどの戦争犯罪を、ベトナム戦争を仕掛けた政治的責任者、米軍関係者の責任が追及されるまで、世界に向かって告発、発信し続なければならないということである。しかし、そのことは、人々が寄り付けないような「恐ろしい博物館」をつくればよいのではなく、多くの人民の犠牲によって勝ちとられた民族解放運動の最終目標は、「民族の自立、平和を守り育てる博物館」の実現なのではないかと思われる。厳しさの中にも、心和む時、空間のある博物館を目指してほしい。

(5)私は、ツアーに参加させていただいて、これまでの沖縄・ベトナム友好協会を通じた、トナムと沖縄の皆さんとの友好交流事業に、福島の皆さんが加わり、言い換えれば、ベトナム戦争の出撃基地となってしまった沖縄の責任・自戒の念を基礎においた友好交流事業に、放射能被害をこれ以上拡散できないという、強い思いを共有する人たちと加わった、新たな質の高い友好交流活動が始まっていることを知ることができた。そのことに感謝しつつ、沖縄の皆さんと福島の皆さんとの友好交流事業、そしてベトナムの皆さんとの友好交流事業が一層発展して行かれることを心からお祈り申し上げたい。

注14:従軍慰安婦問題を見れば、加害者の厚顔無恥さ加減は、アメリカ政府だけの問題ではないことが分かる。また、ツーズー病院での会見の席上、タン医師が枯葉剤の散布を「人災」、福島の原発事故を「天災」と整理したことに対して、坪井さん・安田さんがすかさず、「あれは天災ではなく人災です」と訂正されたことが強く印象に残っている。

追伸

ベトナム戦争証跡博物館のところで、全体のバランスが崩れるような大きな注、しかも沖縄との接点に関する注を入れた。このツアーは、沖縄・ベトナム友好協会主催のものであるという主旨を踏まえ、相互の交流に役立てばということで、あえてそのようにさせていただいた。ご了解いただければ幸いである。

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ツーズー病院平和村でタン医師、ドクさんと一緒に

 

 

2014年2月15日の大雪の影響

 寺本 千名夫

 私たち福島組は、2月15日成田発18:00のハノイ行き(JAL751便)でベトナムへ向かい、同深夜、ハノイのホテルで沖縄組の皆さんと合流する予定であった。しかし、14日から降り始めた大雪によって、出発便に間に合わなかったのである。その顛末を忘れないうちに書き留めておこうと思った。要するに、想定とは全く異なる「ところが」の連続であった。

福島組と言っても、私は、北海道からの参加で、成田までのことは、本来の福島組の皆さんとは、異なっている点についてはご了承いただきたい。

2月14日

私は、通常だと18時の便であれば、当日に成田へ向かう。しかし、なんとなく、海外だし、雪も降るかもしれないし、ということで、14日夜には成田へ到着できるように計画したのである。美唄から特急カムイ(札幌からは快速)で新千歳空港へ行き、羽田行き19時30分のANA便に搭乗する手続きをして、ぼんやり案内板を見ていた。

「ところが」、いきなり欠航という表示が出たのである。札幌~羽田線は、日本の航空網の大動脈にあたる路線で、雪に対する備えがかなり進み、以前に比較して欠航は少なくなってきている。しかも、車中からの様子では、雪は降っているが、それほどひどいという状況ではなかった。早速スタッフのところへ行って「どうしたの?」と聞いたら、「こちらではなく、羽田空港の滑走路が雪の影響で使えなくなったそうです」とのこと。それで「この後、どうなるの?」と聞いたら、「羽田の除雪作業が終わり次第飛びます」とのこと。それでは、ということで待つことになった。通常であれば、19時30分以降のANA羽田行きは、20時30分、50分、21時00分、25分、45分とたくさん飛んでいるので(夕方の羽田からの帰りの便)、そう心配はしていなかった。

「ところが」、最終便までとうとう出発のアナウンスはなかったのである。スタッフは、「本当に申し訳ありません」と恐縮している。彼女たちを責めても仕方がないので、一つだけ残っていた、明朝一番の7時30分の便を予約して空港周辺に宿をとることとした。スタッフは、ホッとしたようで「明日の朝なら問題はないと思います。それと、こういう状態ですので、千歳市内のホテルは満室だと思います」というので、苫小牧のホテルをなんとか確保し、遅い電車で移動した。やたら寒い晩であった。

2月15日

翌日、朝5時に起きで、空港までJRで順調に移動。「ところが」である、案内板を見て絶句してしまった。そこには「欠航」の2文字があったのである。「見通しは?」と尋ねると、ひたすら「除雪完了次第・・・」というお話。とにかく待つしかないのかと考えていたところ、掲示板に「条件(着陸できなければ引き返す)付きで福島便8時35分は出発」との案内が出たのである。これはいける、福島から新幹線に乗れば十分間に合う、条件付きといっても、これまでの経験では、ほとんどが着陸できていると考え、乗ることにした。この時点で、また一安心したことは事実である。小雪の中、飛行機は福島空港へ向けて飛び立った。

「ところが」、ほぼ1時間と少し経過してから、「現在着陸態勢に入り、空港の上空を旋回しているところです」との機長談話が流れた。「旋回」の言葉に「やばいな」と思っていたところ、しばらくして「着陸は無理と判断し、千歳へ帰ります」とのアナウンス。ため息が出てしまった。周囲の人達は皆、そんな顔をしている。後から考えてみると、本来の福島の皆さんは、予定より早く集合され、大雪、渋滞の中を移動されていて、その頃、私は、福島空港の上空をグルグル旋回していたということになるのである。なんともはやという状況にあったのである。

千歳に戻ったが、まだ羽田行きは一便も出発していなかった。13時に、当日最初の羽田便が飛ぶことになった。朝1番から予約を入れておいたので、乗れることになり、これで何とかなると考えた。それだと14時半には羽田に着く、それなら成田18時には間に合うと。旅行社の沖縄HISの田中さんにもその旨連絡を取った。しかし、また「ところが」の発生である。機体が滑走路に向けて動き出し、良かったなと思っていたところ、ピタリと止まってしまったのである。機長アナウンスでは「羽田管制塔から、非常に混雑しているので、連絡があるまで待機せよとの指示があった」とのこと、この待ち時間の長かったこと・・・。再び動き出し、離陸したのが14時30分であった。通常なら到着時間である。しかし、実際には羽田到着が16時15分。また、沖縄HISの田中さんに「ようやく羽田です。これから成田へ向かいます。」と連絡。この時、初めて、福島の本隊の皆さんも予定より遅れているということを知らされた。この時点で初めて、国際線なので搭乗するのはかなり難しくなったようだなとは感じていた。でもギリギリ挑戦してみようという気持ちだった。

羽田で使い慣れた京浜急行に乗り込んだ。京浜急行は、都営地下鉄、京成線と相互乗り入れをしており、成田行きの特別快速が走っているからである。駅へ入ったところ、また、「ところが」に出くわすことになった。ホームのアナウンスは、「本日は、雪のためダイヤが大幅に乱れ、京成線との相互乗り入れはございません」と繰り返している。各駅停車の都営地下鉄の中で、ほぼ「敗戦」を認めざるを得なくなってしまった。京成線への乗り換え時に、HISの田中さんに連絡を入れたところ、「実は、福島の皆さんも厳しいようなんです。どうされますか(お家へ戻られますかとの意)」というお返事であった。「いや、成田まで行ってみます。」と即答した。人間、情けないことに「自分一人ではない」と思うと元気が出るのである。とにかく皆さんに会って今後のことを話し合ってみようと思ったのである。この時点で後藤さんにお電話をすることになったのである。後藤さんに連絡がついてからも、京成線のダイヤが乱れていてうまく特急に乗車することができず、成田空港への到着が遅れに遅れてしまった。

2月15日夜、成田空港からホテルへ

成田空港で、ようやく福島からの皆さんと合流することができた。皆さんは、食事の最中であった。早速、後藤さんから、「明日の便で6人の席を確保できたところです。誰が乗るかで議論しているところです。その中に、北海道からということで先生も入っていますよ。」とのお話があった。それでは申し訳ないと思い「自分はANAの会員なので、そちらをあたってみます。」と言い、窓口を探したところターミナルが違うとのこと、さらに今の時間帯では、係員はすでにいないだろうということであった。いずれにしても、後藤さんを通じて、「もともと欠員の方が出たので参加させていただいているのですから」ということで辞退させていただいた。後で、後藤さんから、報告される安田先生を中心に重鎮の方々で決まりましたとのお話を聞き、良かったと思った。

その晩は、空港周辺のマロウドインターナショナルホテルナリタという比較的大きなホテルに宿泊することができた。成田空港周辺も大雪の影響で宿泊場所の確保は困難ではないのかなと思われたが、沖縄HISの方の努力で実現したようである。部屋は伊達市梁川の堀江さんと同室となった。堀江さんは農家さんで、私は農業経済の研究者ということで組み合わせてくださったのだと思われる。堀江さんから名刺をいただいて、長い間梁川町会議員をやってこられ、現在、生活健康を守る会事務局長を務めておられることを知った。皆さんもお分かりのように気さくな方で、いろいろ話が弾んだ。気になっていた、福島からの移動状況についてお話を聞くことができた。朝からの雪で、予定を早めて出発したにもかかわらず、交通渋滞に巻き込まれてしまい、成田空港に予定通り到着できなかったということであった。皆さんが乗られたミニバスが空港に到着したのと搭乗予定の飛行機が離陸するのと同じような時刻であったようである。とすれば、私の場合よりもっと長い時間、間に合うかどうかやきもきされてきたことと、あと一息のところだったいうことが分かった。

また、堀江さんは、何回も明日(16日)に予定されていた、ハノイ近郊のドン・アイン村での農家の皆さんとの交流に参加できなくなったことを残念がっておられた。ただ単に、交流活動に参加できないということだけではなく、そこで、報告をすることになっていたのだけれど、駄目になったということを残念がっておられたのである。そう言いながら、向こうで食べてもらおうと思って持参したんだと言って綺麗で大きなあんぽ柿を取り出した。お気持ちよく分かるので、「おいしい、おいしい」と言って御馳走になった(なんとなく私の理屈は変だったけれど)(注1)。

ただ、堀江さんだけでなく、ベトナムの農村を自分の目で見ることを楽しみにしていた私も残念で仕方がなかったのである。参加理由の大きな期待の一つが消えてしまったのだから。しかし、よく考えると参加できなかった私たちだけでなく、訪問予定者の半分が参加できなかったので、訪問先のドン・アイン村の皆さんも、鎌田先生をはじめとする沖縄組の皆さんも、落胆されたのではないかということにも気が付いた(注2)。

堀江さんが眠られてから、インターネットでいろいろ作業をしてみた。期待していたANAの羽田~ハノイ便は3月からだった。また、JALの翌日、翌々日の成田~ハノイ便は満席となっていた。ただ、JALの成田~ホーチミン便は翌日数席残っているらしいことが分かった。その時点で、もし、明日ハノイに行けないのだったら、ハノイの行事はあきらめて、ホーチミンへ行って合流する方が良いのではないか、と思った。

注1:堀江さんの準備は、「報告」、「あんぽ柿」だけでなかった。ホーチミンのホテルでの交流集会で分かったように、「歌=米節」、「書」まで準備されていたのである。残念がるのも無理はない。
注2:ホーチミンの空港で鎌田先生に会ったら、開口一番「雪の馬鹿野郎」、「一緒に聞きたかった」と言われたことが非常に印象に残っている。鎌田先生のお気持ちがよく出ている表現だったと思っている。「農村での交流は期待していた以上によかった。だから、よけい農業を勉強しているあんたにも参加してほしかった。」と言っておられるのである。(それにしても温厚そのものの鎌田先生から「馬鹿野郎」という言葉を聞くとは思わなかった。)合流してから沖縄組の皆さんもポツポツと農村交流が良かったと言われる。それを聞けば聞くほど、堀江さんをはじめ福島組の残念度は上昇していったのである。

2月16日

朝、ホテルのロビーで、改めて福島組の皆さんと御挨拶を交わし、何人かの方と名刺交換もできた(注3)。その後、どうなるだろうと思いながら、皆さんとターミナルの待合へ移動、そこの一角に陣取って、交渉を継続していくということになった。後藤さん夫妻は、すでにキャンセルがないかということでANAの窓口まで行ってこられたとのこと。そうこうしているうちに、お昼頃、今夜の便に後5人乗れることになったという朗報が飛び込んできた。この知らせで、皆さんの顔が一瞬にして明るくなった。それはそうだ、「せっかくいろいろ準備して、外国行くというので餞別までもらってきたのに、このまま成田から帰るのかい(笑)」という心境だったのだから。

これで昨日確定の6人+5人で11人、成田集合の菅野さんは昨日飛んでいるので、残り3人となった。残りの3人は、後藤さん夫妻、寺本となった。午後2時には、もう1人可能という連絡があり、後藤さんの奥さんが乗ることになった(注4)。と同時に、あと2人はかなり難しそうだということもわかってきた。そこで、午後4時ごろ、私から「後藤さん、ホーチミン便をあたってみましょう」と提案し、改めてJALの窓口へ行き、確認したところ、偶然にも2席残っているということであった。2人で話し合った結果、今夜ぎりぎりまで待ったとしても、ハノイ便に乗れるとは限らない。それより、この2席を確保して、皆さんとはホーチミンで合流しましょう、ということになった。JALの窓口でも、その方が確実だと思いますということで、ハノイ便からホーチミン便への変更を簡単に了解してくれた。二人とも今回のツアーの目玉の一つである、安田さんの原発災害、賠償問題に関する報告を楽しみにしていたのだが、あきらめざるを得なかった(注5)。

ともあれ、福島組全員が成田から戻ることなく、とにもかくにもベトナムに行けることになったわけである。「よかったですね!」という言葉が自然に出てきた。これは、JAL側で大雪の結果だということで誠実に対応してくれたこと、沖縄HISでもきちんとJALに交渉してくれたこと、皆さんが非常に冷静で、しっかりと両者に交渉していったことの結果であると思われる(注6)。

ホーチミン便も、ハノイ便とほぼ同時刻であった。後藤夫妻は、しばしのお別れである。搭乗前に、鎌田先生に電話を入れ、HOANG HAI LONG HOTEL(ホアン・ハイ・ロン・ホテルという読み方でよろしいのかな?)へ、2名の者が一日早く到着する、ということを連絡していただいた。後は、空港到着後、ホテルまでの移動をスムーズにできるかであった。その際、2人ともベトナム語は全くダメなので、外国人の足元をみるようなタクシーにあたらなければといいなあ、という心配だけが残った。

幸いなことに、深夜ではあったがまだ小さな両替店が営業しており、また、両替店+タクシー紹介(行き先を言って事前に料金を支払っておく)というお店も営業しており、順調にホテルまでたどり着けた。ホテルのチェックインもうまくいった。二人とも疲れ切っていて、部屋に入るなりバタンキュー状態であった。特に、全体の事務局長役を果たされ、福島組全員のベトナム渡航実現を果たした後藤さんの心労、お疲れ度合いは、大変なものだったのだなと想像された。

注3:その時、安田、真木両先生のところへ挨拶に行くのをためらってしまったことが心に残っている。お話しされていたということもあるが、それよりも両先生は、私らの世代からみれば、「雲上人」という感覚が強いのである。
注4:そう決めたのは後藤さんで、一瞬、私は外国へ行くのにご夫婦バラバラでは不安ではないかと思い、そばにおられた方に、小声で「いいんですかね、心配だけど」と聞いたところ「でえじょうぶ(大丈夫)、でえじょうぶ(大丈夫)」と迷うことなく言われる。何が「でえじょうぶ」なのかよく分からなかったが、そこまで言うなら「でえじょうぶ」なんだろうと思って了解した。後で皆さんから「でえじょうぶ」の意味を教えてもらった。それは、
後藤さんは福島と沖縄を股にかけて活躍されておられ、奥さんはその間しっかり家を守って奮闘されておられる方で、そんな柔(やわ)な人ではない、という意味なのだということであった。
注5:合流後、鎌田先生はじめ皆さんが、安田さんの報告が良かった、良かった、政府の高官も来た、等と言われる。前日の農村訪問・交流に関しては、福島組は、菅野さん以外参加できなかったので、それほどではない。しかし安田報告の方は、参加できなかったのは、後藤、寺本の二人だけなので、残念度はさらに上昇してしまった。
注6:個人的には、JALの対応が予想以上に良かったと感じている。窓口になったのは、成田空港のツアー関係のチーフらしき女性である。大体決まってから、彼女に「有難うございました。これで全員ベトナムへ行けることになりました。私は、パイロット、スチュワーデスさん達の大量解雇で、JALにはもう乗らないと決めていたのですが、今回の件で、少し見直しました。」と言ったところ、彼女の答えは、「いろいろありましたの
で・・・誠心誠意努めさせていただくより仕方がありません。よろしくお願いします。」であった。

2月17日

朝起きて、後藤さんと皆さんと空港で合流するまでの間どうするかを話し合い、旧独立王宮殿、旧南ベトナム大統領府へ行こうということになった。解放戦争の最後に民族解放戦線の兵士たちが突入し、南ベトナムが解放された歴史的な建物である。後藤さんは、前回訪問しているということで、案内役を務めてくださった。

松林の庭には、捕獲された米軍、南ベトナム政府軍の戦車、戦闘機、等が置かれている。遠くで見るとそれほどではないが、そばで見ると結構大きく、圧迫感がある。それらをカメラに収めて、建物の正面玄関へ向かった。

建物の中に入って、日本語通訳さんを探したのだが、生憎、出払ってしまっているということだった。キョロキョロしていると、4,5人の日本人グループに通訳している人がいて、その人の後についていくことにした。1階正面のフロアーには、1975年4月30日、最初に突入した解放戦線兵士の諸装備品が展示してあり、当時の写真の一面で見た覚えのあるものであった。旧宗主国であるフランス風の王宮殿だったので、王宮殿へ至る立派な道路、宮殿前広場があり、宮殿内部には、会議室、謁見室、居室、子供部屋、食堂等、立派な施設、部屋が沢山あった。

軍事上の作戦室は階上と地下室にあった。当然のことながら、大きな作戦地図が掲示されている。階上のものは、たぶんプレス用の部屋か大統領など高官への説明の部屋で、実際の作戦活動は、地下室で行われていたと思われる。壁にある地図などは、解放当時のものではないかと感じられた。大統領府とはいえ、作戦室は、本格的なもので、かなり大きいものではないかと想像していたが、実際にはそれほどではなく、小さめの部屋であった。少し驚いた。

興味深かったのは、やはり、どこそこへ通ずるといういくつかの地下通路があり、裏には、脱出用のヘリコプターが常備されていたことである。最初から、脱出を念頭に置いた大統領府であり、米軍と一体となって強気な発言、軍事行動を行ってきた、南ベトナム政府の、「客観的な認識」はそこにあったのかもしれない、と考えた。しかし、緊急時にどこへ脱出しようとしていたのだろうか、聞いてみたいと思った。

昼食は、道路一本隔てたベトナム風レストランへ入った。前庭には、大きな樹が何本もあり、涼しげである。ちょうどお昼時ということで、お客さんがたくさんいた。二人ともベトナム語は全くダメなので、絵入りメニューをもらって、「これとこれ」作戦。注文はベトナム料理の基本である「フォー」(米粉の麺)とイチゴジュースのような飲料。「フォー」の味は、日本人には問題のない味で、美味しかった。ベトナム料理の基本中の基本である「フォー」が口に合うということが分かり、一安心したものである(注7)。イチゴジュースはかなり甘く、どちらかと言えば、ヨーグルトに近いような感覚であった。料金は、通貨ドンの表示単位が非常に大きくて、その料金がどのくらいの水準なのか、把握するのが難しかった。言葉が全く分からなかったにもかかわらず、なんとか食事をすることができて、満足した次第である。

その後、皆さんと合流するために、タクシーで空港へ向かった。後藤さんが帽子を購入したいということで、空港に早めに出かけた。我々の感覚では、空港には商店が沢山あるというものだったが、実際には、それと異なっていた。お店がなかったのである。いろいろ思案をめぐらしたところ、空港ターミナルからはかなり距離があるところに見える4、5階の建物がデパートのようなので、行ってみたところ、そうだった。

予定の到着時間になったので到着口で待ったが、なかなか出てこられない。また、何かの事故かなと考え始めるような時間帯になって、ようやく皆さんが出てこられた。福島組の方が、手を振って「同志よ、元気かい、というところですね」と言って下さる。そこには、わずか24時間ぐらいのものだったけれど苦楽を共にした結果、湧いてきた連帯感が生じていた。

注7:ホテルのバイキングでもその一角に「フォー」の屋台が設置されており、その味に親しみを覚え、毎食事、味噌汁感覚で食べてきた。