ベトナム中部の連続台風被害について寄付のご協力願い

ベトナム平和ツアーに参加して

ベトナム平和ツアーに参加して

                                              比嘉悦子 

 国を超えて、人と人との結びつきを深める旅であった。帰国しても口をついて出るのは「自由ベトナム行進曲」である。いろいろな人との出会いの場面や風景等が次々と脳裏に浮かび忘れることが出来ない。今回のツアーの目的は、「震災から3年近く日越友好40周年の年に当たり、ベトナムの人たちへの≪福島への支援≫に対するお礼の気持ちを伝えると共に、大震災と基地の現状をつぶさに知らせ、福島・沖縄・ベトナムのトライアングルの関係をさらに発展させるため、福島と沖縄の合同で企画された」と言う。ベトナムの地で、福島と沖縄の人々が集うところに大きな意味があったのである。そういうことからすると、福島の参加者の皆さんにとっては、交通機関がストップするほどの大雪の中、最終的には15名全員が参加できたのは、このツアーに対する並々ならぬ思いがあったればこそ。とにかく良かった。

 私にとっては初めていくベトナム。誘われるまま参加したが、ベトナムのことがより理解できるような充実した企画・内容であった。企画してくださった実行委員会の方々に心から感謝したいと思う。まず、「民族博物館(水上人形劇観劇)見学」をはじめ、「農村での交流会」「安田純治先生の東日本大震災報告会」「サイゴン川ディナークルージング」「カンザーの大マングローブ林見学」「ホーチミン市越日友好協会との交換会」「戦争証跡博物館見学・館内での交換会」「ツーズー病院訪問・ドク氏との面談」等。又、帰国直前になってしまったが福島の方々との交流の最後に、声高らかに歌った「沖縄・福島を返せ」の合唱とカチャーシーも想い出になっている。「歌声は平和の力・心と心を繋ぐ力」と言われるがまさにそのことを味わい続けた旅でもあった。

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 5泊6日の旅はすべてが意義深いものであった。その中でも、ハノイ近郊の「農村訪問」は、ベトナムの人たちの素朴で温かい心に触れて、とても印象に残っている。ハノイ到着前の空から見た田園風景に感嘆したが、農村の風景もまさにそのものであった。自給率100パーセントとのこと。自分たちで食べる物はすべて自分たちで作っていることになる。すばらしい!!次から次へと運ばれてくる料理の中に「足てぃびち」を見つけて驚いたり、「熱々のふかし芋」が出てきたときにはアジアは繋がっていると思ってものである。「ねぇーどうして食べないの?食べて!食べて!」と。沖縄風に言えば「かめーかめー攻撃」である。自家製のお酒や手料理で来客をもてなし、言葉の壁がないかのように笑いあっている様子は、「いちゃりば兄弟」そのものである。解放軍に7年間属していたという長老の方と一緒に歌った「自由ベトナム行進曲」でさらに心が繋がった。又、お礼に歌った「芭蕉布」の合唱は、みんなの気持ちが一つになって最高の出来であった。ベトナムでも農業人口が減少しているとのこと。これからは、後継者の育成やTPPの問題等も含め、いろいろな課題に直面すると思われるが、食の安全と自給率については、常に高めていってほしいと願いたい。

農家の沖縄女農家の食卓

それから旅の3日目にハノイ市内の各国友好協会連合会での「東日本大震災報告会」も考え深いものであった。報告者は今から38年前に今の原発事故が起こりうることを警告して闘ってきた原発問題の草分け的な存在である安田純治弁護士。報告は今回の旅の目的の一つでもある「ベトナムの人からの義捐金に対するお礼」を述べると共に、福島原発事故の実態と、その客観的事実に基づきわかりやすく話された。その内容はその内容はベトナム語にも訳され文書化されていたため、お互いが同時に報告を聞くことが出来、学習を深めることが出来たと信じている。私にとっても新しい情報が多く、原発について知らないことが多いと実感した。一人でも多くの人に伝えていかなければという思いにかられ、帰国後すぐに、「年金者組合女性部の総会」でも報告書を基に学習する機会を設け内容を共有することが出来た。このことも「ベトナム平和ツアー」に参加できた成果である。

 

 今回の旅では、鎌田会長はじめ実行委員会の皆さんに大変お世話になった。紙面を借りてお礼を申し上げたい。

記念写真

 

平和ツアーに参加して

                    平和ツアーに参加して

                                                                     仲程順子

以前からベトナムに行ってみたいと思っていたので、話があったときはすぐに飛びついた。

2月15日 11:55出発。台北経由にて、15:40 ハノイ着。この時点で時間がどうなっているのかチンプンカンプン。バスから見たハノイの景色は全体的にまるで霧がかかっているよう。

順霧

ホテルから見た街・一面が霞んでいる

(添乗員のロンさんのベトナムについての説明)

〇米の生産高はタイと1、2位を競っている。

〇平均年齢が28歳で、子供が多い。

〇工業国をめざしていて、現在の農業人口は全国民の70%だが、10年後は半分に減ると思われる。

〇2018年には原子力発電が完成する 等々・・・

2日目、午前、民族博物館見学。ベトナムは50余の少数民族で成り立ち、着物、建物、道具などの展示があり手作りの温かさに心がほっこり。特に刺繍に興味を持った。また、仏壇は沖縄の仏壇と共通するのがあり親しみをおぼえた。

順子1

午後は楽しみにしていた農村との交流。バスから降り、川に沿った農道を歩いて屋敷内に入ると家畜小屋があり池には魚がいて、幼い頃よく遊びに行った近所の家へタイムスリップしたようで懐かしかった。オーダー、カマ、つるべ(沖縄の方言でチー)など、沖縄でかつて使っていた農具とよく似ている。また田植えの見学では、今でこそ沖縄では田んぼはほとんど見られなくなったが、機械ではなく大勢で手で植えている風景には、助け合い協力し合いのユイマールの精神がまだ残っていることを感じた。その後の食事会でも、親族が集まり身近な食材での手料理は大変美味であった。お酒も自家製とは。また、私たちの合唱に、1人1人が心から喜んでくれた。小さい子供までみんなで踊ったカチャ一シーで一体となりさわやかな汗を流した。農家の皆さんの心添えが温かく、別れの時はジーンとくるのがあった。

農家

3日目、各国友好協会連合会にて、安田純治氏の東日本大震災報告会があり、その中で38年前から原発の危険性を指摘していたこと、在外国研修生の問題、原発事故について話された。その後、ラムさんの詩や俳句の朗読があり、こんなに遠いベトナムでも、福島の痛みを親身に感じていることを知った。

報告会交流集会詩人

しかし、昼食に使ったレストランで、お茶代が日本円で1,400円と高かったにもかかわらず、2人分もボッたくられたのはとても残念に思った。

4日目。カンザーのマングローブ林をNGOの浅野さんの案内で見学。どれだけの人がこの中を泣き叫びながら、砲弾の中を逃げ回り、血を流しただろうなど思いながらマングローブの林の中へ入っていった。緑一つ無かった地がみんなの努力のおかげで緑の素晴らしい大地に再生されていることに、最初は憂鬱だった私の心が感動に変わった。

マングローブと川5日目。戦争証跡博物館見学。悲惨な写真ばかり。沖縄戦を体験した金城さんが「沖縄もこんな状態だった。」とおっしゃられた。戦争は殺すか殺されるか。また、罪もない子供たちや女たち老人まで住民が巻き添いにされる戦争。今、日本は怪しい方向に向かっているのではと危惧されるが、戦争は絶対にしてはならない。みんなで一丸となって止めなければ。沖縄に住んでいて、法もまったく無視する国のやり方に、日本の民主主義はもう無いのではないだろうかと思える。

また、侵略戦争と戦った女性は、容姿も変わるほどものすごい拷問を受けた。いろいろあったろうが今は幸せに生活をしているということだったのでホッとし、嬉しかった。

午後のツーズー病院平和村では、まず胎児の標本に枯葉剤の汚染の強烈さに唖然とした。お母さんの温かい腕の中に抱かれたかったろうに。これが3世代まで続くとはとても恐ろしい。しかし、アメリカは環境への汚染は認めているが、人体への影響は認めてないそうだ。また、アメリカ兵やその子供たちにも影響は出ていて、アメリカ人に対しては保証をしているがベトナム人に対しては保証なしとは。アメリカの傲慢さに心底怒りを覚えた。が、ドクさんがたくましく成長し父親になり、ツーヅー病院で働いていることがとても嬉しかった。

ツーズー病院ドク3

街は活気があり、アオザイを着た高校生、食べ物がとても美味しかったこと、バイクの群、幾重にも絡まった電線、幾何学模様の刺繍の美しさ・・

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もう一度、と言わず何度でも行きたいベトナム。沖縄がウチナー世(ユー)、大和ぬ世(ユー)、アメリカ世(ユー)と変わったように、中国やフランス、アメリカなどから虐げられながらも強く逞しく生きてきて、穏やかな優しい目をした農村の皆さんにもまた会いたい。

そして、あの3,11の再生不可能な原発事故。仮設住宅での皆さんの苦しみや孤独感など福島の皆さんからの話や沖縄の辺野古、高江の問題・・。自分たちのこれまでの生き方はどうだったか、これからどうするべきかを真剣に考えなくちゃいけない等々‥

今回の旅は沢山の事を考えさせられ、私の心の宝物となった。

手作りの平和の旅を企画してくれた、鎌田さんはじめ実行委員の皆様に感謝いたします。

ベトナム平和・友好の旅

  ベトナム平和・友好の旅

                        仲松泰子

 初めての外国旅行で選んだベトナムは、私の想像以上の国でした。ベトナム戦争があった頃に聞いたことや、本で知ったことを確認したいと思っての参加でしたが・・・。あれから50年。当時の様子をどれだけ見聞できるのか?戦争の痕跡はどのくらい保存されているのか?気になっていましたが、やはり素晴らしいコースでした。始めに行った農村での交流は昔の日本の農業を思い起こし、オーナーの話は大変参考になりました。全体的に大変いい見学コースだったと思います。

農家と沖縄組3

「戦争証跡博物館」では、戦争当時何回も投獄・拷問を受けた女性の貴重な証言を聞いたが、想像して胸が苦しくなりました。今は元気で語り部として頑張っている姿に接し心底嬉しくなりました。ベトナム戦争は村が戦場であり兵士の80%は農民だったという事実は、今の沖縄の闘いにも通じるものがあると思います。やはり人民が団結し闘ったからこそ勝利したのです。

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ツーズー病院では奇形の子どもたちにショックを受けました。米国が撒いた枯葉剤はあまりにも残酷すぎます。標本室ではホルマリンに漬けられていた胎児を見ましたが、まともに生まれてきたらどんなにか可愛い赤ちゃんになったでしょうに。人になれなかった子どもたちの標本が2008年のものまであったことを考えると、今もこのような出産が続いているのではないでしょうか。

仲松

ツーズー病院平和村での仲松泰子さん

仲松・比嘉

沖縄・福島・ベトナムの心がひとつに溶け込んだ友好の旅

沖縄・福島・ベトナムの心が一つに溶け込んだ友好の旅

仲程 桂一郎

初めてとは思えないベトナム。異国ではあるが本土より身近に感じた「ベトナム平和ツアー」であった。心に残った事柄を順に記してみる。

ハノイ民俗資料館で50余りの民族でベトナムが成り立っていることがわかった。そこに住んでいる人々の生活様式も様々であるが、特に関心を持ったのは沖縄と同じように仏壇みたいなものを設置して祖先を崇拝している民族が存在していることがわかった。私の心は感激でいっぱいになった。絶対そこを訪ねて沖縄の祖先崇拝のルーツを追究しようと私の心は躍った。

仏壇

最上にある筒の中にはご先祖様の名前を記してあるそうだ。

農村との交流会は小さい頃の沖縄を思い出させた。バスを降りて川沿いに沿って歩いて一軒の農家に入っていくと家畜小屋があり、川の流れを利用してため池にして魚や水鳥を養い、母屋の裏手には田んぼが広がり、都会慣れしている人間にとっては衛生面で違和感を感じるところもあるが、私はそこに桃源郷を見た思いがした。中庭で交流が始まると自家製のご馳走が次から次へと運ばれて、私たちは感謝、感激でご馳走になった。また、自家製のお酒もあり男どもは顔を赤らめる御仁もおれば、話は通じないが顔の表情や身振り手振りで心と心を通わせる。しかも飲むときはオール乾杯でコップに注がれたのを飲みほさないといけない。最初は良かったが杯を重ねていくうちに、酔いがまわり始めてきた。食事は沖縄流に「かめーかめー」攻めである。みんな心が一つになったところで「カチャー シー」で名残り惜しんでお別れをする。沖縄の「カチャーシー」は福島、ベトナムどこでも通用する「平和」の踊りと再確認させられた。

農家と沖縄組

赤ら顔も見られる男性陣

各国友好協会連合会での「東日本大震災報告会」では団長の安田純治氏が「義捐金に対するお礼」と「原発事故と原発を巡る現状報告」があった。原子力発電所を容認し建設するベトナムの方々が原発事故の恐ろしさを理解しベトナム当局に伝わっていくことを願った。

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    各国友好協会連合会で報告する安田純治団長

カンザーの大マングローブ林では展望台から四方八方を見渡すと地平線が見えないほど緑の大マングローブ林である。米軍の枯葉剤や爆撃で生物も生きられなかった地を見事に再生させたベトナムの人々の逞しさを感じられずにはいられなかった。

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左から後藤勝彦さん、寺本千名夫さん、ベトナム美人の方とパチリ

ホーチミン市越日友好協会との交換会では拷問で容姿が変形した女性元兵士、語り部として頑張っており、勇気づけられた。男性元兵士のギター演奏での「ベトナム自由行進曲」の合唱、橘氏の尺八演奏、沖縄組の「芭蕉布」の合唱で全員の心は一つになった。

ツーズー病院平和村では枯葉剤の影響でこの世に生を受けなかった奇形をした胎児の標本、目を覆いたくなるような標本の数々、しかも年代が三世代に及んでいること、枯葉剤の影響を受け、平和村で生活している方々、更にこれからも増え続ける現実、人体への影響を認めないアメリカ。この戦争の非道な現状を全世界に訴えていくことを心に誓った。

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ツーズー病院平和村で楽しく過ごす枯葉剤後遺症の皆さん

最後に今回のツアーで特に感じたのはタイトルに表したように「平和の心」を歌を歌うことで感じたことである。歌唱指導して頂いた比嘉悦子さんに感謝いたします。

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カチャーシーで心ひとつに・・・・カチャーシーは世界の宝

ベトナム平和ツアー2014年 農村交流

ベトナム農村交流に参加した!

鎌田 隆(沖縄国際大学名誉教授)
 はじめに
 今回の旅程をつくるコンセプトとして、前回の2012年平和ツアーとの重複は避けるが、重要な箇所は何度でも行くということで、前回のクチ地下トンネルからカンザーのマグローブ林に変更する一方で戦争証跡博物館とツーズー病院は変更なく組み込んだ。また、文化面と経済面のプランとして、民族学博物館、水上人形劇、農村訪問を取り入れた。
これによって、① マングローブ林→戦争証跡博物館→ツーズー病院を回ることで、枯葉剤被害を系統的に学べた、②農村交流の芽だしができた、③福島からの報告を期待できた。ただ、②③が前半ハノイ市であったことが、大雪で「ゆきどまり?(駄洒落)」で日本で足止めを喰った福島組のみなさんのみならずツアー全体にとって大きな打撃であった。
今回の大きな課題を、①前半の農村交流・報告会と ②後半のベトナム戦争とくに枯葉剤被害(カンザー・戦争証跡博物館・ツーズー病院)として掲げた。

 農民との交流・交換
 筆者にとってのベトナム農村調査は2回目であった。第1回目は、2003年8月の南部メコンデルタのチャンジャン省ゴコドン県タンニャット村ビンタイ農業合作社での聴き取り調査であった(詳細は、拙著『ベトナムの可能性』2006年4月シイーム出版)。
ベトナムでは、1975年ベトナム解放後南ベトナムでも一挙に農業集団化が実施され、行き詰まり、それが直接的要因となり、ドイモイ政策が開始された。
大多数の合作社が解体されるなかで、上記合作社では、ドイモイ政策以後も良好な実績を挙げ残存する合作社であった。それでも、生産・供給・消費の全面にわたる協同化ではなく、生産手段の供給や生産物の供出で市場経済化された関係で、資本主義的企業を仲介するものであり、ドイモイの成果を踏まえて協同化された農業合作社として好結果を示していた。
筆者にとっての2回目の今回は、農業調査というよりは、農民との交流という側面が強かった。だが、農村訪問については、旅程作成の初期の段階からその要求は大きかった。
それには、第一の課題は、2010年おきなわ・ベトナム祭りのシンポジウムで来沖した、故桜井由躬雄東京大学名誉教授の影響が強かった。「昔、石垣島にアンナンという国の兄妹が稲の種をもって稲を教えた」「・・・西表島に・・・ニライカナイから渡来し、人々に稲を教えた・・・」というように、沖縄・日本への稲作伝承起源がアンナン(仏領インドシナ中北部)であったこと、水田の「耕起」に「蹄耕」「踏耕」などの東南アジア伝承の耕法が八重山にあった(いずれも桜井由躬雄『緑色の手帳』)、日本の稲作のルーツとしてのベトナム農業との交流への要求が強かったこと、

第二の課題は、沖縄・福島から農業関係者が参加して、日本農業とベトナム農業の歴史と課題、農業技術の交換など専門的な内容まで踏み込んでいけるという願望があった。
例えば、①現今のベトナムでは主に自家用や富裕層・日本人向けに限定され未発達な、無農薬など有機農業について、②固有種農業(地場の伝統的種子での農作物栽培)について、一つは、日本の農家が技術指導・協力することがないか、二つに、たとえば、有機農法にしても基準を設定して認可取得を支援する態勢づくり、三つに、米作における土作りなど農業技術の交流・交換をともに考える。

第三の課題は、ベトナムにおける農業合作社の経験・課題と日本における農業協同化の現状の意見交換、などなど、日本・ベトナム共通の課題への意見交換と支援態勢を創出する。

第四の課題は、ベトナム特有の「農村から析出される労働力が共同体から離脱し得ない『離農不離郷』(前記桜井由美雄)」、すなわち、農業を離れても農村に居続けるという

ベトナム独自の状況の実態を実際に確かめたい。
さらに第五の課題は、③近年のベトナムでの農地破壊やWTO加盟などによる食糧自給率の低下の傾向について、日本の戦後高度成長下の農業の衰退の実情からの問題指摘や対策を提案する。
以上のような農村調査に際しての課題整理を、沖縄で提案し話し合った。

 

ドンアインの農家で
 今回の農村訪問は、ハノイ市の近郊農村であるドンアイン地区農村である。
バスは、幹道に停車して、それからは農道・畦道を進んだ。ちょうど紅河の水郷で豊かな水に囲まれた佇まいの農家の中庭に案内された。いわゆる「農業合作社」ではなく、個人農家の小さなグループのようである。
庭の左右は池、正面の作業小屋・住居の背面は水田である。池には数百羽の家鴨が群れている。リーダーらしき農夫とその息子やその他10名ばかりの農民や子どもたちが応対してくれた。
筆者からの挨拶と、訪問の趣旨説明では、上記のような当方の課題意識を披露した。しかし、春の大雪によって未だ到着できない福島の農業関係者と、沖縄側も準備不足・打合せ不足があり、上記問題提起に続く「二の矢」が出ないし、相手側からの回答も望むべくもない。
農村調査の前提としての、農業経営形態、協同化の程度、農家数、農業従事者数、生産物の種類、生産額、農業収入、「ドイモイ」政策の成果・課題と展望など基礎的な事項・数字すら聴きだせなかった。これは、問題提起した筆者の責任として深く反省している。
ついには、堅い議論はさておきという雰囲気から、家屋の向こう側の水田で、二期作の最初の田植えの現場を観た。耕作面積は日本と変わらない小規模な田んぼが続いている。区画ごとに2・3人のユイマールのような関係?の「早乙女」たちが、今では日本では珍しくなった手植えをしている。

ドンアイン農村交流2.16

夕間暮れの畦道で、参加者はそれぞれ質問をしている。筆者がリーダーの息子に「後継者はいるか」と尋ねたら、「自分の息子はもう農家は継がない」「六代目で途切れる」という。このハノイの近郊農村にまで都市化が押し寄せ、離農傾向が増えているのかと暗澹たる気持ちになった。あとは、全部自前の食材による料理に地酒の交歓会が始まった。当方からは台湾で買った洋酒をプレゼントした。女性の参加者は農家の女性たちと記念写真である。時あたかも(暦をみれば)如月の十六夜の月、「田毎の月」なんて今では使わなくなった季語を思い出していた。

農村家族

議論は決して深まらなかったが、白い月に照らされた墨絵のような幻想的なひとときであった。沖縄側は、これは準備万全の「芭蕉布」の二部合唱、最後は、子どもたちも輪に加わっての「カチャーシー」で座は最高に盛り上がった。

私の前回の農村調査は、筆者個人と専門知識をもつ通訳との調査であった。この日は、農村との出逢い、交歓会・交流会であって、調査や経験・技術の交流は次の段階であると割り切ったら、成果を誇ることができるであろう。沖縄・福島側もベトナム側も再会を期する雰囲気は出来た。福島の農業関係者は、農業技術の交換のための資料も報告の準備もできていた。福島側の稲田提供による農業を通した福島・沖縄の交流が始まった。沖縄側参加者は8月から農業研究会を立ち上げ、次の機会に備える。

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白い月に照らされて帰りに着く沖縄・福島の参加者と見送るベトナム側の農民たちの影絵のような姿が畦道に続く、再会を期して・・・。

農村交流